ヨーロッパ自転車の旅 2000年3月〜2000年10月 |
ニュージーランドの旅から2年。
「また走りたい」の想いがしだいに大きく募ってきた。 あの旅の終わりに「次の夢は...」なんて遠くのことのようにボンヤリ思っていたことが、再び本気で考えだすとワクワクが始まった。
ニュージーランドで会ったスタイルを持っているヨーロッパのサイクリスト達。 そんな風に自由に走れる大陸って一体どうなんだろう?自転車の発祥の地、見てみたいライフスタイル。
ツール・ド・フランス観戦やアルプスハイキングを盛り込み、美術館やお城巡り、憧れのヨーロッパを自転車で行ってみよーってノリで旅立った。
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オーストリア・ウィーン着(2000年3月30日)
初めて体験した時差ボケに負けてはならぬと街を練り歩く。
古いビルディングの街並みと石畳、馬車のひづめの音、時間が止まっているかのようだ。
重みのある風景の隙間から覗かせている、れんぎょうの花。
出迎えてくれたかのように、きれいな黄色がきわだっていた。
生活の足となっている路面電車に乗って、街を眺めていると[4月1,2日バイクフェスティバル開催]の広告を見つけた。
翌々日、そのフェスティバルへ自転車用のバックやキャリアを探しに行った。
買い足しの用品は、現地調達しようと日本で用意しなかったのだ。
そこへ集まってくる人達の自転車と持ち主のスタイルは、クールでカッコイイ。
何十年も乗っているようなロードレーサーとじいさんやフレームとアクセサリーとウェアを合わせたセンスのいいカップル、
アンティークな自転車のキャリアにチューリップを束ねて新聞にくるんでくくりつけて走ってるお兄さん。
靴や鞄をきちんと選ぶように、自転車もその人のステイタスとして選ばれている。
その後数日間は、美術館や教会など回りながら自転車屋を探し、足りなかったものをおぎない地図を買ったり、コースをチェックしたりと出発の準備を整えた。
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ウィーン滞在10日後、4月9日出発
ドナウ川沿いを西へ向かって走る。 こんな大きな川を見るのも、サイクリングも、もちろん初めて。
コンクリートの堤防がなく、島国のものとは違い、芝生の横をたふたふと流れる様子は大陸を思わせる。
日曜日ということもありサイクリングしてる人も多く、時には馬やポニーにまたがった人達に追い抜かれびっくりする。 木陰や緑いっぱいのサイクリングロード脇には、カフェやレストランが点在している。
さすが自転車の発祥の地ヨーロッパ。 自転車本体のことだけじゃなくサイクリングが楽しくなるように仕組まれている。
初日90キロほど走り、川沿いの小さな町のキャンプ場に泊まる。 4月上旬では、まだ冬の終わりといったところだろう。 キャンプ受付と共通になっているカフェに来る人はいるが、テントで泊まる人は他にはまだ誰もいない。陽が沈むと寒さが増してくる。
シュラフにもぐっても温まらない。 足にサイクリングバックを二重にかぶせるが、まだ寒い。 持ってる服を全部着込んでも眠りに入れない。 そんなことを繰り返しているうち、夜は明けてしまった。
翌二日後の夕方、キャンプ場を探してた。 庭いじりしているおばさんを見つけて尋ねるが、英語は通じない。 キャンプ場を探していることをなんとか伝えると、おばさんは少し考え「ハウス」と言ってワゴン車を用意した。
どこへ行くのだろうと思いながら、自転車ごと乗り込み発進した。
数キロ先の山の中にある、彼女の別荘へ着いた。 ここに泊まっていいということだ。 そこで飼っているニワトリの卵を数個もらいカギを預かり、明朝迎えに来るようなことを言って去ってしまった。
ヨーロッパ人は冷たいと聞いてはいたが、親切な人もいるんだなと思った。
しばらくすると外から私を呼ぶ声がする。 話せないもどかしさと興味、好奇心が強い彼女は、村で英語が話せるおじさんを連れてきた。
「英語とドイツ語は全然違うからね。わかんないでしょ。」
と気軽に応じてくれた彼は、アメリカから移住してきたらしい。 彼もまた、私の旅に興味を持ち、通訳してあれこれと旅の話しをしては盛り上がり、納得して戻って行った。
翌朝彼女が迎えに来たとき、私はドイツ語で自己紹介をする。 昨晩、このような出会いもあるものだとドイツ語を少し覚えた。もらった卵をゆで卵と目玉焼きにして食べ、おいしかったことを伝える。
お別れのときにはおまじないをして、缶詰やパンを持たせてくれた。 日本に帰ったら手紙を書くことを約束し、うれしい気持ちいっぱいになってペダルを踏んだ。
その後、少し覚えたドイツ語を使いたくて、自転車に乗っているじいさんをつかまえては、 「ヴィエナから走ってんだー、日本から来たんだー。」
と言うと、
「オーッ、マリア!!」
と天に祈っていた。
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美術館巡り
以前、東京都美術館でヤン・フェルメールの絵を鑑賞した。 きめ細かくて緻密に描かれ、ひとつひとつの物の質感がそこにあるように感じられた。
その絵の回りには多くの人が立ち止まって、その魅力にとりつかれていた。 ヨーロッパ行きを決めてから調べてみると、1600年代のものと古く、作品は30数個しか残ってないという貴重なアーチストということがわかった。
作品の半分はヨーロッパにあり、絵があるところになるべく行こうとルートを決めた。
ミュッヘンにて美術館へ入り料金を払おうとすると、無料だと言う。 なぜかと聞くと、
「今日は日曜日だから。」
なんともシンプルでグレートな答えに感激!
日本の美術館は、高い料金を払って人ごみを見て疲れてしまう。 こういう小さなハッピーがあればいいのに...。
ベルリンではフェルメールの絵を二つ見る予定だった。美術館へ行き、フェルメールのことを尋ねると、
「明日からアムステルダムにある作品がこに来る。夕方6時から特別展だ。」
と教えてくれたのでその日は、入らなかった。翌日行ってみると、ベルリンとアムステルダムが所有している絵を交換する特別期間の始まりとわかった。 夕方6時というのは、その作品の説明、鑑賞会を1室で行われていることで、10名ほどが集まって熱心に聞いていた。
(ドイツ語だけ)しかも、特別料金はなく入場料で参加できるものだった。 その期間中は、夜の10時まで開館しており、もちろん他の絵も見ることができた。
約1ヶ月後、アムステルダムへ行ったときは、ベルリン所有の作品を見ることができた。
オランダではハーグの美術館で、[ターバンを巻いた少女]を探していた。 どうしても見当たらないので、係員に聞いてみると、
「レンタル トゥ オオサカ わっはっは!」
と言われてしまった。
こういうときもあるさ、しょうがない。 ちょうど同じころ、こういうルートで走っているとは知らない大阪の友人からメールが入っていた。
「フェルメールの特別展示会へ行ったよ。オランダの画家だよね。」
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フランス・ルーアン(6月下旬)
ルーアンの街へ入る前、長々と道路工事が続く道を走っていた。 工事で働いてるおじさん達は、自転車こいでる私をみると胸にこぶしを当て
「アレ!アレ!」(行け!行け!)
と声を掛けてくれる。
ロードレース観戦で見られる、選手へ送る応援だ。 このようなことが、次の街の人当たりのよさがわかり、少し安心する。
ルーアンでは、モネが愛してやまなかった大聖堂をゆっくり見たいのと、友人に宛てた手紙に書き添えた返事はこの街にと指定した手紙を受取るための滞在予定だった。
翌日、街をブラブラ歩き、まずは、大聖堂近くの郵便局へ行く。 私宛ての手紙を受け取りたいと尋ねると、若い女性局員は、私の英語力が足りないのか、全くわからない状態だ。
奥の部屋の方から、年配の女性が出てきて話しをすると、
「出掛ける用事があるから、本局まで一緒に行きましょう。」
とスムーズに解ってくれた。 郵便局を出て一緒に歩きだすと彼女は、私の旅の長さを察し「どんな旅をしているの?」
と聞いてきて旅の話しをしながら、街のスポットまで教えてくれた。 10分ぐらい歩き、本局に着くと私の手をギュッと握って、
「手紙が受取れるように。これからも気をつけてね!」
と言って別れた。
一瞬の出会い、少しの励ましがペダルを踏むパワーの源になる。
本局の中へ入り、カウンターで尋ねると、私宛ての手紙は来てないと言う。 何度も調べてもらったがやはりない。 あきらめて後にするが、なんだか気になる。
友人が返事を書かなかったと思えばそれまでなんだろうが、それだけじゃないような気がしてならない。
海外青年協力隊でフィジーへ派遣されているその友人へ電話すると、
「現在使われておりません。」 というような内容のアナウンスが、受話器に響く。 何かおかしい。
手紙の返事がないことは、正常ではないことだと改めて気づく。
共通の友人、ニュージーランドへ電話を掛けると、
「スバでテロが起きたが、彼女は今安全な所にいる。」
と教えてくれた。 電話番号を聞き、フィジーへ電話すると、彼女のいつもではない、少し緊迫した声を聞いた。
1ヶ月前に立てこもりが勃発したこと、今の生活の様子、私の手紙すら届いてないことなど様子が聞け、とにかく無事を確認して電話を切る。
新聞やテレビがない生活はシンプルでいいけれど、あまりにニュースを知らなかった無知の怖さが、ひしひしと大きくなってくる。 今回の旅は、インターネットカフェなどを使ってメールのやりとりができ、日本の情報が少し取れていた。
携帯電話が普及し、メールが公用に使われるようになり、情報や物で溢れかえっている日本では、考えられない1件だった。 それと、ひとりでサイクリングの旅ができる安全な国にいることのありがたさを改めて、かみしめた。
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日常に見かけた小さなこと
街の中、どこでも犬を連れて歩いている。散歩というよりは、所有物のようにずっと一緒でなきゃという感じで、デパートの中にも連れていた。
街の石畳にはフンがよくある。踏んだ“あと”もよくある。 けれど街中にある大きな公園には、犬の入園禁止マークがありそこには一匹たりとも犬はいないし、フンもなかった。
さすがにスーパーマーケットでは、ご主人待ちの犬が、出入口付近にしばられている。 出入りする買い物客は、犬の頭をなでて通り過ぎていた。
マーケットのカートは子供用の小さいのもある。 野菜や果物は、キロ単位で精算。パッケージになってないので、おいしいものを選ぶのも手にとって自分次第。
見たことない野菜を選んで料理するのも旅の楽しみのひとつ。 国や地域が変わればマーケットの品も変わるので、見て回るのもまた楽しみのひとつ。
買い物帰りの母子。お母さんが持っている焼きたてバゲットの先がほしくて、おねだりする子供。 おいしさがつまっているバゲットの先っちょ。
町外れで紙袋を持って自転車に乗っている少年に追い抜かされる。 橋の上で止まったその少年は、手にしている紙袋を逆さにして川にパンくずをほおった。カモや魚に分けたのだろう。このような場面を何度も見た。
土日には、子供たちがほうきを持ってよく玄関先をはいていた。 聖堂では、フォークを持った子供たちが床についたロウを取っていた。
ドイツでは、ゴミの分別が徹底されていて、電池やビンの色分けも、透明、茶色、緑色、と捨てるようになっていた。
フランスのあるプールにあった禁止マーク。ビール、タバコ、靴、シュノーケル、男性と男性が手をつないでいる。
スペインのあるキャンプ内であった禁止マーク。自転車、バイク、スケボー、サッカー、銃。
街も田舎も海も山も、大人のものだった。 “オープンビーチ”はビーチに限ったことではなく、川の中州や公園やプールも。 オープンといっても1割弱、自信のある人が露出しているのであって、みんながみんなではありません。
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フランス・モルジン(7月中旬)
6月にロンドンで買ったサイクリング雑誌を見て、フランスの走るコースを検討し、”ツール・ド・フランスはモルジンで見よう!”と決めた。
それからは、朝から雨が降る日も走ったり、いくつも峠越えて1日の距離を伸ばしたり、7/18へ向けてまっしぐらだった。
モルジンでは、ユースホステルに泊まり、宿のオーナーにジョックスプラン(1,700m)の行き方を教えてもらった。
7月18日早朝、町からケーブルカーに乗り、さらにポイントまで2時間位歩く。 その間、山道には、足の悪いおばあさんやクーラーボックスを抱えたおじさん、小さい子供もリュックを背負って歩いている。
ほんの一瞬過ぎ去る選手たちを見るために町の人々は、えんやこらと場所取りに向かい、まるで夏祭りを待っていたかのようにずっと前から楽しみにしていた様子がうかがえる。
ジョックスプランに着き、いいポイントはないか探していると、日本人7,8人の団体を見つけた。久しぶりに日本人に会い、 嬉しくて仲間に入れてもらうと、彼らもまた個々にツールを追っかけて、偶然会ったそうだ。
そうして、初めてのツールを追っかけ仲間らと一緒に、興奮して選手たちを応援する。
翌日もう1泊の予定を変更し、その日のレースのスタート、レマン湖のほとりのエビアンへ行くことにする。 ツール・ド・フランスを見た興奮が冷め止まなく、もう1度見たいと思ったからだ。
夏の避暑に集まった、自転車トレーニングで来てたスピードスケーターのオランダねえちゃんや 一緒にハイキングしたフランスのジョジアナさんに会った私の田舎のようなユースホステル。「また来なよ!」と言ってくれた宿のオーナーとフレンチキスして別れをした。
山々のすばらしい景色を見ながらエビアンへ向け、一気に下る。 町へ着く5kmくらい手前で、ロードバイクに追いつかれた。 リュック1つ背負いツール・ド・フランスを追いかけてたドイツ人のフランクは、モルジンの同じ宿にいて顔は知っていた。
お互いの旅の話しをしてるうちエビアンに着き、町はレースのスタート前の大勢の人でごった返していた。 さらに、人ごみを避けようと前へ進んでるうちに、スルっとスタート前のコースへ出てしまった。
キャラバンカーも走り終え観客が、今か今かと選手が来るのを待ち望んで見守る中、私達2人は、 湧き上がる声援をかっさらって走ってしまった。 「まだ行ける!?」の繰り返しで笑いが止まらなかったが、15kmは走っただろうか。
スイスの手前でポリスにつかまり、やむを得なくそこでストップ。 ほんの数分後にだんご状態の選手達が目の前を通り、観戦した後すぐに再び走り出した。 選手達の通った熱気が残っている余韻の中を走ると、道路脇の人々の声援が再び湧き上がり、フランクはいい気になって両手を上げ、ガッツポーズで走っていた。
昼食も取らないで持っているものでなんとかつなぎ、自分が40kgぐらいの荷物をつけたMTBだということも忘れ、ツール・ド・フランスを追いかけていた。 しかしロードバイクのフランクとは、間隔が開いてくる。
だんだん距離は大きくなり、ついには見えなくなってしまった。 ショートカットをしてもう1回ツールが見られるかと思ってたけど、もう陽も傾いてきた。 ”今日はもう終わりだな”と思いながら走っていると、キャンプを予定してた町の入口にフランクが待っていた!
「私のために待っていたの?」
と聞くと、シャイな彼は小さくうなずき
「テントを持ってないから、次の町へ行く。」
と言う。 楽しかった1日を分かち合う固い握手をして、彼が知っている唯一の日本語で別れた。
「おはようございまーす。」
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ハイキング(8月上旬)
スイスのザーマット手前の最終キャンプ場でテント張る。
翌日、ザックを背負ってザーマットの街までペダルを踏む。 インフォメーションでハイキング用の地図を買い、コースを読んで検討する。 マウンテンバイクのコースもあるが、山では歩きたい。
ゆっくりマッターホルンを眺めながら。
メインストリートを外れると、その勇姿がどーんと見える。 本当に美しい4478mのそびえたつ高さは大きな山脈から連なっている。 日本にも、ニュージーランドにもない、スケールが大きいヨーロッパアルプス。一歩一歩、歩くにつれその大きさが近づいてくる。
雲ひとつなく美しい姿を目に焼き付けておこう、写真はもっと上へ行ったときにでも... 背にしてしばらく歩き、振りかえったときには、マッターホルンの頂上がら煙が吐き出しているような雲がでてしまった。
登山電車の駅にもあるリッフェルベルグ(2582m)まで歩いた。 この高さへ来ても、マッターホルンはあと2000mもある、高い! その駅にはトイレがあった。
しかも水洗でチップはない。 登山電車に乗ってきた日本人の子供とトイレで一緒になった。 その後、私のことをお父さんに言いつけていた。
「あのねーちゃん、すごくいっぱい汗をかいていたよ。
トイレの水、水筒に入れていたよ。」 私は便器から汲んでいたんじゃないの蛇口からよ〜っ!給水管はきれいよォ〜と心の叫び。
山を降りていると、日本人の中年夫婦に会った。 話しをしながらゆっくり歩き、山小屋で少し休憩をする。 その時にビールをごちそうになった。 奥さんは、
「自転車の旅って、いろいろもらうの?」
と聞いたので、
ご飯をごちそうになったり泊めさせてもらったこともあるというと、
「へぇ〜、なんかいいわね。他には?」
そんないいことばかりじゃない。 そんなことは長い一人旅のなかでほんのちょっとのこと。
毎日自転車こいで、通りすがりの人と一瞬でも笑顔が交わせたら、それはもうハッピー。 旅姿の私を見て、「自転車の旅を挑戦したことあるけど、淋しくて一週間で家に帰ったよ。」
と言われたことがある。 そう、孤独感に打ちのめされるときだってある。 思っているようないいことばかりのフワフワした旅ではないんだけど...小心者なので、もちろんそんなことは言えなかったけど。
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イタリアの町中(9月)
観光地で有名な街よりも、どこかなつかしく、生活が感じられるような町がいい。
庶民的な小さな町では、よくある午前中だけの市場。 屋台が並び新鮮な食材と活気がある人々の「チャオ」の嵐でフレンチキスや握手、ハグしているようすが見られる。
カフェに入れば井戸端会議をしており、私にも問いかけてくる。 常連がくれば何も注文しなくても、欲しいものがでてくる。商店街が続く道。
パン屋、麺屋、惣菜屋、アイロン屋、玩具屋、仕立屋、金物屋。 まだまだアナログな生活が感じられる。
街灯はオレンジ色。
フランス、スペインは高速道路を走っているようで飛ばして走る車ばかりだったが、イタリアへ入るとスピードが落ちた。 私が信号待ちをしていると、よぼよぼじいさんが寄ってきてイタリア語でしゃべりまくる。
人との距離が近い。 信号が変わっても、彼は動かなかった。
ある日の夕方、街の観光を終え中心地から離れているキャンプ場へバスで帰る。バスに乗ると、子沢山の夫婦と一緒になった。 夫婦兄弟とその子供たちもいるようでにぎやかだ。
年代ものの乳母車にはニューベイビー。 生れたての赤ちゃんを家族で迎え、家へ帰るところのようだ。 私も周りの人も「わー!ちいさい!」と言って乳母車を覗き込む。
バスが止まるにつれ、席が空くと譲ったり譲られたりで顔を合わせる。 ぐずった赤ちゃんを抱き寄せ、お母さんは、おっぱいをあげる。 周りの同乗者は見ぬふり。次のバス停で一同が降りるようすだ。
私も降りるので、先に前へ行って乳母車の前を持とうとしたが、ドアの前に立っていた男性がスッと乳母車を持ち上げ、降りていった。 大家族一同が降りるとその男性は再びバスへ戻った。
なんだか、あったかいバスの中だった。
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さいごの出会い(10月下旬)
この旅の出発前、姉から和紙の折り紙と川崎大師のお守りをもらっていた。 今回の旅のパッキングは神経質になっていて、特に荷物は最小限にと紙切れ一枚でもパンツ一枚でも少なくすることばかり考え、そのように準備していた。
そんな時に、折り紙とお守りを渡すなんて無頓着なと思ったけど、
「あなたの旅は、たくさんの人にお世話になるのだから。」
と添えられた言葉にハッとした。
旅の間、たくさんの人に親切をもらった。 うれしい気持ちを、その折り紙で鶴を折って渡した。 住所も交わさず、写真も撮らなかった一期一会ひとつひとつが、思い出のすべてをも鮮やかにしてくれている。
地味な紺色の折り紙が使えず、最後に一枚残っていた。 旅ももう終わりに近づいていた。
この旅の最終地のローマでは、自分に褒美でホテルでも泊まろうと思っていたけれど手ごろな宿がなく結局、帰る日までキャンプ泊まりだった。 ホテル泊まりだったら枕元に折り鶴を置いたりしていたが、それもない。街の観光巡りの毎日だから、田舎でありそうな出会いもない。
何か合ったら渡そうと最後の折り鶴をポケットにしまっていた。
ヨーロッパの旅最後の日、朝早く誰とも話すことなく、キャンプ場を後にした。 全部の荷物が入っている輪行袋を抱え、バスや路面電車を乗り継ぎ、空港行きの電車に乗り込もうと階段を踏んだときバランスがくずれ、
フラっと後ろへ反った瞬間、中からひぱっられた。
「なにこれ?」
「自転車。」
「旅の相棒だね。俺にもいるさ、ギターと一緒だ。」
アメリカ人の彼は、ギターでヨーロッパのクラブを回って旅をしていた。
ヨーロッパ人のウケがよくなかったのか、自分の実力を知ったのか、当たらなかったから、アメリカへ帰るそうだ。 少し落ち込んでいるように見えたのは、そのことばかりでなく、飛行機の搭乗時間に間に合うかどうかということだ。
空港の駅へ着いたとたん、それまで話していたのとは別人のように、あっという間に去ってしまった。 きちんとお礼もあいさつも言えずじまいだった。大きな荷物があるのでゆっくり降りて、人ごみを避けて後方から進みゲートを探す。
朝のラッシュのせいでカウンターは、どこも列を作っていた。 チェックインが済み、自転車はまた別のカウンターに預け、後はもう乗るだけだと思ったところに、飛行機に乗っているはずの彼にばったり会った。
「どうだった?乗ることできるの?」
「うん、何とか次に乗れるよ!」
「よかったね。そうだ、あなたにこれをあげる。グッドラッグでね!」
ポケットにしまい込んでいた最後の折り鶴を差し出した。
「え〜っ、俺は何にもあげるものないよ!」
と言いながら頬と頬を合わせ、また人ごみに紛れて行った。
さいごに、カフェを飲み慣れたデミで味わい、ヨーロッパの地を飛び立った。
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